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東日本大震災~構造設計者とは~


「――どこにいるんだ。宮城で火の手が上がっているぞ。」

私が東北地方太平洋沖地震についての一報を聞いたのは、父からの電話でした。地震発生時、岐阜県は各務ヶ原市で、竣工式を翌日に控えた東海中央病院(免震建物)の見学中だった私は、地震が起こった事も知らず、父の心配をよそにぶっきらぼうに電話に出たのでした。

地震の規模、被害については皆さん充分ご存知の通り。まずは、この震災によって惜しくも亡くした命に深い悲しみとお悔やみを、そして被災された方々が一日も早く日常を取り戻せる事を祈っています。

さて、構造の仕事に携わるものとして、大きな地震が起きてまず気がかりになる事は、やはり自ら設計に関わった建物の状況。正直1、2週間は、会社の電話が鳴るたびに冷や汗をかいたものです。幸い、使用が絶えるような被害を受けた物はなかったのですが、日に日に送られてくる被災建物の写真に、構造部の面々で喉をうならせていました。

「なぜここが壊れるのか。」
「なぜこちらは無事なのか。」

地震発生後、被災建物調査として茨城、福島、仙台、一関、そして液状化被害の大きかった浦安へと向かいました。我々が訪れた土地は、津波の被害こそ受けなかったものの、震度5強から6強の揺れに見舞われた地域。6強と言えば、建物は倒壊せずとも部材の損傷が始まるほどの大きな揺れであり、500年に一度起こるか起こらないかという大地震。体感された方々は相当な恐怖を覚えたでしょう。倒壊を避けられて本当によかった。

多くの被害箇所は、実際に見ることで「なるほど、こういう力が加わって破壊したのだな。」と納得(してはいけないのだが・・)できるものでしたが、中には、想像を絶する壊れ方をしている物もありました。破壊が語る、揺れのすさまじさ。それを想像するだけで恐ろしくなります。しかし、それらから学び、今後に繋げなければならないのでしょう。地震はまたやってくる。

「―おかげさまで子供たちの命を守る事ができました。」

浦安市の東野小学校を訪れたとき、校長先生からいただいた言葉。私だけに向けられたものではありませんが、構造設計者として、これ以上うれしい言葉はない。

3万人以上の死者・行方不明者を出している東日本大震災。津波による被害が大きかったとはいえ、構造設計者が救えた命がいくつあったのだろう。失わずにすんだ夢はいくつあったのだろうか。

「地震」は、被害災害を伴うと「震災」へと名前を変える。兵庫県南部地震から阪神大震災、東北地方太平洋沖地震から東日本大震災へ。

自然の力にあらがおうなんておこがましい事かもしれないが、これからもずっと、建物と命を守っていく。

それが構造設計者だ。


      
                   巡回する当社スタッフ


作成日:2011/0706   所属:構造部 茂木
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